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歴史
1931(昭和6)年5月29日に完成したばかりの東京飛行場(現・羽田空港)から小さなプロペラ機「青年日本」号がイタリア・ローマを目指して飛び立ちました。このパイロットは法政大学航空研究会(後の航空部)所属の栗村盛孝と付添教官の熊川良太郎(朝日新聞社)でした。青年日本号は東京~京城~満州~モスクワ~ベルリン~ブリュッセル~ロンドン~パリ~リヨン~マルセイユと各主要都市を経由しながら、1931年8月31日に最終目的地のローマに到着しました。
羽田空港の前身である東京飛行場が開港したのは1931(昭和6)年8月のこと。この年の9月18日に、満州鉄道が爆破された柳条湖事件が起き、中国侵略の足がかりにする満州事変が勃発しました。そして満州国の建国を機に日本は軍事国家への道を走ることになります。なお、NHKラジオ「ラジオ体操」は1928(昭和3)年11月1日に放送開始。FIFAサッカーW杯第1回は1930(昭和5)年に南米・ウルグアイで開催されました。東京・渋谷駅前の忠犬ハチ公像(初代)が設置されたのは1934(昭和9)年4月のことです。
1964年に開催された東京オリンピックに合わせて建設された東京モノレール。開業直後は浜松町駅と旧羽田駅の2駅で、途中に停車する駅はありませんでした。その後、大井競馬場などの駅が追加されました。また、羽田空港内もターミナル移転や拡張工事に合わせて、駅の新設や移転が行われました。ちなみに、現在の羽田空港第1ターミナル駅と新整備場駅、天空橋駅は1993年9月に開業、第2ターミナル駅は2004年12月に開業、第3ターミナル駅は2010年10月に開業しています。整備場駅は1967年3月に羽田整備場駅として開業、名称こそ改められましたが、所在地は建設当時から変更されていません。
江戸時代より東京湾の埋め立て工事が始まりましたが、最初の埋め立ては江戸城の築城工事に伴う堀の掘削土を使用して、丸の内や八重洲が埋め立てられました。当時は現在の東京駅あたりまで海だったのです。そして埋め立て工事はどんどん進み、その延長線上として羽田沖も埋め立てられ、のちに羽田空港が作られました。1970年代になると、空港需要の拡大に対応するため、滑走路の沖合拡張が必要となったものの、そこはヘドロが堆積したドロドロの底なし沼で、マヨネーズ並みの軟度でした。この地層を地盤改良するため、最先端の土木技術が投入されました。そのため、計画から完成まで約20年の歳月を要し、ようやく羽田空港新滑走路の供用に至りました。
皆さまにご利用いただいている羽田空港、その旅客ターミナルを運営する日本空港ビルデングは2023年に設立70周年を迎えることができました。設立した1953年はまさに高度経済成長期を迎えようという時期で、今日へと続く企業も数多く設立されました。①のSUBARUは1917年の創業で、戦前は航空機の製造を手掛けていました。戦後は幾つかの企業に分割されましたが、その中心的な企業により1953年に富士重工業(現SUBARU)が設立されました。②「マルちゃん」のブランドでお馴染みの食品会社、東洋水産は1953年に横須賀水産として創業、1956年に現在の東洋水産に名称を改めています。③日本を代表する玩具、トミカやプラレール、リカちゃんで知られるタカラトミー。同社はトミーとタカラ、2社が合併した企業ですが、1953年に株式会社として設立とされています。そして④「マツキヨ」の愛称でお馴染みのドラッグストアチェーン、マツモトキヨシは1932年に創業、1954年に個人経営から法人組織である有限会社マツモトキヨシへと改組しています。
JALが設立したのは1951年10月。設立時から客室乗務員が在籍しており、最初の制服はシルバーグレーの襟付き2ピーススタイルで、デザイナーは門田 稔さんでした。その後、数年ごとにデザインが改められており、2020年4月に採用された現在の制服は11代目となります。コンセプトはハイブリッドビューティーで、デザイナーは江角泰俊氏です。JALとしては初のパンツスタイルが導入されたのも話題となりました
拡大する航空需要に対応すべく、羽田空港第2ターミナルが開業したのは2004年12月1日のこと。この年は航空に関するニュースも多く、4月には日本航空(JAL)と日本エアシステム(JAS)が経営統合、9月には関西国際空港が開港10周年を迎えました。そして、現在では中京圏を代表する国際空港として知られる、中部国際空港セントレアは2000年に本格的な工事がスタート。2004年10月には空港ターミナルビルが竣工しました。ちなみに、空港が開港したのは翌2005年の2月17日で、着陸一番機はJAL、出発一番機はANAでした。
1993年といえば平成5年。同年の6月には天皇皇后両陛下がご結婚され、日本中が祝福ムードに包まれた年でした。羽田空港新ターミナル(現在の第1ターミナル)が開業したのは同じ年の9月27日。これに合せてモノレールも延長しました。同年は羽田空港同様、横浜ランドマークタワーなど、さまざまな大規模商業施設などが開業しましたが、恵比寿ガーデンプレイスは1年遅い1994年10月に開業しました。また、当時世界最大、史上最大の屋内スキー場、ららぽーとスキードームSSAWSは羽田空港第1ターミナルと同じ年に開業しましたが、2002年に営業を終了しています。
海上保安庁に所属する国産プロペラ機YS-11の最後の1機は「ブルーイレブン」です。ブルーイレブンは1969年に就役、主に海難事故の捜索、救助や哨戒活動などに当たってきました。総飛行時間は約2万3000時間で無事故でした。
メインロビーの壁にあったのは森永チョコレートの世界地図。この時計は珍しかった海外への旅行を象徴するものでした。また、メインロビーにあった精工舎(現セイコー)の世界時計も国際空港ならでは。メインロビーには売店もあり、お土産用の宝飾品なども扱っていました。
1972年4月1日に、日本武道館でマック・フォスターと対戦するため初来日したモハメド・アリ。2度目の来日は1976年6月26日に開催された「格闘技世界一決定戦」で。羽田空港には2000人のファンが押し寄せ、大混乱となったそうです。その際一緒に来日したのが、悪役プロレスラーとして日本でも人気のあったフレッド・ブラッシーでした。彼はスペシャル・アドバイザーとしてアリ陣営に参加。コーチ役としてプロレス技を指導したといわれています。
1974(昭和49)年4月20日、東京国立博物館でフランス・ルーブル美術館所蔵の名画「モナリザ」が一般公開されました。当時の総理大臣であった田中角栄さんがフランスの大統領との会談の際に、名画「モナリザ」をぜひ東京で見せてほしいと懇願したことで実現したとのこと。「モナリザ」はエールフランスのボーイング707によって北極(アンカレッジ)経由で来日し、帰りは日本航空のDC-8貨物専用機JA8032によってモスクワ経由で帰国しました。
第二次世界大戦終結後、連合国による占領下に置かれた日本では、1945年9月12日に一般命令第一号によって羽田飛行場は連合国への引き渡しが命じられ、Haneda Army Airbase(ハネダ・アーミー・エアベース)と呼ばれることになりました。1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、1952年7月に日本政府に返還されました。このサンフランシスコ講和条約は第二次世界大戦後の平和条約で、日本と連合国各国で結ばれました。この条約の発効により、連合国による占領は終わり、日本は主権を回復しました。
東京飛行場として開設した当時は、面積53haに長さ300m、幅15mの滑走路1本を設け、脇にカタカナの右読みで「トウキヤウ」と書かれたコンクリート製の標識文字が設置されていただけでした。その後、1938年から1939年(昭和13年から14年)にかけて最初の拡張工事が行われ、延長800m、幅80mの滑走路が2本整備されました。1959年(昭和34年)にA滑走路を2,550mに延長、1964年に(昭和39年)にC滑走路が完成、1970年(昭和45年)にB滑走路の延長工事、2000年(平成12年)に新B滑走路完成、2010年(平成22年)新たにD滑走路が完成などを経て、合計4本の滑走路となりました。
朝日新聞社は早くから航空業界に進出しており、その記者であった美土路昌一は第一次世界大戦(青島戦)に従軍記者として参加したほか、東京-ロンドン間の記録飛行を経験しました。第二次世界大戦により壊滅した日本の定期航空事業を再興することを目的に、1952年に純民間による航空会社「日本ヘリコプター輸送株式会社」を設立しました。この日本ヘリコプター輸送株式会社は、現在のANAの前身であります。
夢の超音速旅客機として1960年代に開発がスタートした『コンコルド』。1969年の初飛行後、1970年末にはマッハ2での飛行に成功しました。石油ショックによる発注キャンセルなどがあったものの、1976年にはエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズにより、定期便に就航しました。21世紀に入るとアメリカ同時多発テロやコンコルドによる事故もあり、2003年には運航が終了しました。日本には定期便の就航はありませんでしたが、開発時のデモフライトを含め数回の飛来実績があります。最初は1972年6月、試作機によるデモフライトとして羽田へ飛来しました。続いては1986年5月にフランス大統領の東京サミット特別機として再び羽田へ。そして1989年2月には大喪の礼へのフランス大統領特別機として羽田へと飛来しました。その後、1990年と1994年にはチャーター便として長崎空港や関西国際空港へ運航されました。つまり、5回の飛来実機のうち3回が羽田空港なのです。
第二次対戦後、羽田空港は米軍に接収されましたが、1952年に日本へと返還されました。1955年に旧旅客ターミナルがオープンしますが、その後も増改築を重ねることで、施設としての機能を充実させますが、同時にユニークな施設や展示も誕生しました。1960年代中盤から1975年にかけては、ターミナル屋上に国産旅客機『YS-11』の試作機が展示されていました。YS-11は1962年に初飛行に成功、1965年4月に定期路線へ就航しています。試作機とはいえ最新旅客機を展示するなんて、羽田空港らしいスケールを感じますし、誰もがヒコーキに憧れを感じた時代らしい展示と言えるでしょう。
羽田運動場は1909年3月、当時京浜電気鉄道が所有していた1万坪に野球場(羽田球場)とテニスコートが建設されました。その建設のきっかけとなったのは、天狗倶楽部という野球チームを結成していた小説家の押川春浪が中心となり、羽田球場の建設を要望したことによります。また野球場のまわりには、競馬場・水泳場・海水浴場なども整備され、穴守駅周辺は一大レジャーランドと化しました。しかし、1912年のスウェーデン・ストックホルムオリンピックに日本が初参加することで、野球場は1周約400メートルの運動場に転換されました。
1950年代初頭はオフィスビルの需要が急拡大した時期。東京駅の丸の内駅舎前には1923年に完成した丸ノ内ビルヂングがありましたが、1952年に行幸通りを挟んだ向かい側に『新丸ノ内ビルヂング』が竣工しました。建物は地上8階、地下2階建てで、一般テナントなども入居していました。しかし、同ビルは再開発にともなって2004年に解体され、跡地には地上38階、地下4階建ての新丸の内ビルディングが2007年に竣工しました。ちなみに、東京タワーは1958年に竣工、現在も東京のシンボルとして親しまれています。通天閣は1912年に完成しましたが、1943年の火災を受けて解体。1956年に2代目となる現在の通天閣が完成しています。地下鉄大手町駅に直結する大手町ビルヂングは1958年に竣工したオフィスビルで、2018年には大規模リノベーションを行い、2020年に工事が完了しました。
羽田へのアクセスではお馴染みの『京浜急行電鉄』。その源流である大師電気鉄道が設立したのは、羽田空港の開港よりも早い1898年(明治31年)のこと。その後、会社名を京浜電気鉄道に改めた同社は、1902年に蒲田駅-穴守駅間を開業します。しかし、この穴守駅は現在の穴守稲荷駅とは異なり、海老取川に近い天空橋付近にあったそうです。その後、穴守駅は移転しますが、1914年にこの穴守駅の位置に『羽田駅』が開業します。しかし、翌年には稲荷橋駅に改称したほか、1940年と1952年には駅の場所が移転しています。さらに1956年には路線の延長に伴って『羽田空港駅』が開業、これにあわせて稲荷橋駅は『穴守稲荷駅』に改称されました。
1975年(昭和50年)5月7日、英国のエリザベス女王とエジンバラ公ご夫妻が羽田空港に英国航空特別機で来日されました。1971年に昭和天皇、皇后両陛下の訪英の答礼とするもので、イギリスの元首として初めての来日でした。宮中晩餐会、帝国ホテルから国立劇場までの約2km間をオープンカーでのパレード、伊勢神宮や京都観光、新幹線乗車など日本に6日間滞在され、5月12日に羽田空港より離日されました。
1972年に日中国交正常化が実現すると、中国から日本に2頭のジャイアントパンダを贈られました。1972年10月28日、日本航空の特別機で羽田空港に到着したのは、「カンカン(康康)」と「ランラン(蘭蘭)」。当時の内閣官房長官の二階堂進氏が出迎えるほどでした。その後、上野動物園に輸送され、第一次パンダ・ブームが巻き起こりました。上野動物園には平均で毎日1万5千人の人々が参観に訪れた。上野動物園に来園したことを記念し、10月28日を「パンダの日」としています。
2024年には路線開設70周年を迎える日本航空の東京=サンフランシスコ線。就航時はアメリカ・ダグラス社が開発した大型レシプロ旅客機DC-6B型が使用されました。DC-6は約700機が製造された傑作プロペラ機ですが、さすがに日本から北米までノンストップで飛ぶことは出来ず、太平洋上にあるサンゴ礁でできた小さな島「ウェーキ島」とハワイの「ホノルル」を経由して、給油や整備を行っていました。当時の時刻表を見ると、運航は週2便で、羽田を夜10時前に出発して、サンフランシスコには現地時間の翌日11時過ぎに到着するスケジュールでした。「あれ、意外に早いんじゃない?」と思うかもしれませんが、これは途中で日付変更線を超えるためで、羽田からサンフランシスコまでの飛行時間は約31時間を要しました。ちなみに、現在の羽田=サンフラシスコ線はボーイング787型機による運航(2022年8月現在)で、飛行時間は往路JL2便が10時間弱、復路JL1便が11時間弱となっています。
羽田空港の初代空港長である中尾純利氏は1903年に鹿児島県で生まれました。埼玉県所沢の陸軍飛行学校を経て、三菱重工のテストパイロットとなり、1939年8月、毎日新聞社主宰の国産の飛行機「ニッポン号」の機長として操縦桿を握り、56日、194時間をかけて5大陸20カ国を歴訪する世界一周の親善飛行を成し遂げました。1952年に羽田空港初代空港長に就任し、1959年10月31日まで在任。1960年4月20日に肺結核のため死去。享年57歳でした。
YS-11は1962年に初飛行を行った、第二次大戦後初となる国産旅客機。官民共同の特殊法人である日本航空機製造が設立され、新三菱重工、川崎重工、富士重工など国内7社が製造を行いました。1964年の東京オリンピックでは沖縄に到着した聖火が、全日空のYS-11「聖火号」で聖火リレーの出発地である鹿児島、宮崎、北海道へと運ばれました。この聖火輸送に使用されたYS-11は飛行試作2号機で、この大役のために全日空に短期リースされました。全日空ではこの聖火輸送にちなんで「オリンピア」の愛称を使用しました。さて、ではギリシャから日本まではどうやって聖火を運んだのかといえば、こちらは日本航空がDC-6B型機を使用、2週間以上をかけて輸送しました。
羽田空港一帯は江戸時代後期に干潟を干拓した土地から空港へと発展しました。空港の建設は1930年頃から始まり、現在の(旧)整備場の周辺が空港用地とされました。では、それ以前は何があったのかといえば、1900年頃から多くのレジャー施設が整備されており、羽田穴守海水浴場のほか、『羽田競馬場』や『羽田運動場』がありました。羽田運動場にはテニスコートや野球場、本格的な陸上競技場、遊園地などもあったそうです。しかし、空港の拡張工事における用地となったため、1938年に取り壊されました。
1954(昭和29)年2月1日の午後5時35分に夫のメジャーリーガーであるジョー・ディマディオ選手と新婚旅行のために羽田に降り立ったのが、アメリカの人気女優マリリン・モンローです。一度はタラップを降りたものの、あまりの群衆に再び機内に戻り、荷物の積み込み口から脱出し、宿泊先の帝国ホテルにオープンカーで向かったという記録が残っています。ジョー・ディマディオ、マリリン・モンロー夫妻は福岡、岩国、広島、神戸などを訪れ、その間マリリン・モンローは朝鮮の国連軍慰問も行いました。そして2月25日14時7分に羽田空港からサンフランシスコへ帰国しました。
マッハ2(時速約2160km)を超える飛行速度を実現した超音速旅客機「コンコルド」。開発はフランスのシュド・アビアシオンとイギリスのBACが中心となって開発され、1975年に就航ました。収益性や安全性などの問題から、2003年に残念ならが退役しましたが、
日本にも何度か姿を現しています。もっとも古い記録は1972年にプロトタイプが飛来、その次が1986年にフランソワ・ミッテラン大統領が来日した際のエールフランス特別機でした。この他、長崎空港や関西国際空港など、日本には合計5回飛来しました。
1960年(昭和35年)から導入した日本航空としては初となるジェット旅客機であり、その美しい佇まいから「空の貴婦人」とも言われたダグラスDC-8シリーズ。初期から中期に導入された機体には日本の景勝地にちなんだ愛称が与えられました。また、長距離にも対応できる性能から、国賓や著名人の移動でも活躍しました。ビートルズは日本公演にあたり、前の公演地である西ドイツ・ハンブルクからイギリス、アメリカ(アンカレッジ)を経由してやってきました。搭乗してきたのはDC-8-32型として導入され、-53型に改修されたMATSUSHIMA号(登録記号JA8008)でした。6月30日から7月2日にかけて5回の公演を行ったビートルズは、7月3日に次の目的地に向けて出発しました。出発時に搭乗したのは、日本航空のDC-8-53型KAMAKURA号(登録記号JA8006)でした。
東京飛行場は逓信省による民間専用の飛行場として開設されました。総面積は52.8haで、滑走路は300m×15mの1本のみ。そのほか、施設としては円形の待合室と格納庫2棟だけで、管制塔はなく、手旗信号で運航業務を行っていました。1931年8月25日の開港第1便は、日本航空輸送株式会社が運航する大連行きの6人乗りフォッカー型機でしたが、乗客はなく、松虫と鈴虫6000匹が運ばれたと記録に残されています。
(写真)
国土地理院
地図・空中写真閲覧サービスより