CATEGORY

歴史

Q
進化を続ける羽田空港、現在の第1ターミナルビルは1993年に開業しました。それ以前に使用されていた旧ターミナルの屋上の展望スペースにはある物が展示されていました。それはナニ?
①飛行機 ②モノレール ③外国製自動車 ④小型宇宙船
A
①飛行機

第二次対戦後、羽田空港は米軍に接収されましたが、1952年に日本へと返還されました。1955年に旧旅客ターミナルがオープンしますが、その後も増改築を重ねることで、施設としての機能を充実させますが、同時にユニークな施設や展示も誕生しました。1960年代中盤から1975年にかけては、ターミナル屋上に国産旅客機『YS-11』の試作機が展示されていました。YS-11は1962年に初飛行に成功、1965年4月に定期路線へ就航しています。試作機とはいえ最新旅客機を展示するなんて、羽田空港らしいスケールを感じますし、誰もがヒコーキに憧れを感じた時代らしい展示と言えるでしょう。

答えを見る 閉じる
更新日:2023/03/17
Q
羽田空港がある羽田地区の歴史は古く、明治時代から穴守稲荷の一般参拝客で賑わい、さらに1909年3月には当時京浜電気鉄道(現・京浜急行鉄道)が羽田運動場に建設し、学生やアスリートの聖地となりました。では、この羽田運動場に建設されたスポーツ施設のうち、該当しないのはどれでしょうか
①野球場 ②テニスコート ③陸上競技用トラック ④サッカーグラウンド
A
④サッカーグラウンド

羽田運動場は1909年3月、当時京浜電気鉄道が所有していた1万坪に野球場(羽田球場)とテニスコートが建設されました。その建設のきっかけとなったのは、天狗倶楽部という野球チームを結成していた小説家の押川春浪が中心となり、羽田球場の建設を要望したことによります。また野球場のまわりには、競馬場・水泳場・海水浴場なども整備され、穴守駅周辺は一大レジャーランドと化しました。しかし、1912年のスウェーデン・ストックホルムオリンピックに日本が初参加することで、野球場は1周約400メートルの運動場に転換されました。

答えを見る 閉じる
更新日:2023/03/17
Q
羽田空港が開港したのは第二次世界大戦の終戦から7年目となる1952年。それでは同じ年に完成した建物は次のうちどれでしょうか。
①新丸ノ内ビルヂング ②東京タワー ③通天閣 ④大手町ビルヂング
A
①新丸ノ内ビルヂング

1950年代初頭はオフィスビルの需要が急拡大した時期。東京駅の丸の内駅舎前には1923年に完成した丸ノ内ビルヂングがありましたが、1952年に行幸通りを挟んだ向かい側に『新丸ノ内ビルヂング』が竣工しました。建物は地上8階、地下2階建てで、一般テナントなども入居していました。しかし、同ビルは再開発にともなって2004年に解体され、跡地には地上38階、地下4階建ての新丸の内ビルディングが2007年に竣工しました。ちなみに、東京タワーは1958年に竣工、現在も東京のシンボルとして親しまれています。通天閣は1912年に完成しましたが、1943年の火災を受けて解体。1956年に2代目となる現在の通天閣が完成しています。地下鉄大手町駅に直結する大手町ビルヂングは1958年に竣工したオフィスビルで、2018年には大規模リノベーションを行い、2020年に工事が完了しました。

答えを見る 閉じる
更新日:2023/02/22
Q
羽田空港へのアクセス路線としてお馴染みの京浜急行電鉄。京急蒲田駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅を結ぶ空港線にある『穴守稲荷駅』は、かつて羽田駅という名称でした。では、この羽田駅が開業したのはいつでしょう。
①1914年 ②1934年 ③1954年 ④1974年
A
①1914年

羽田へのアクセスではお馴染みの『京浜急行電鉄』。その源流である大師電気鉄道が設立したのは、羽田空港の開港よりも早い1898年(明治31年)のこと。その後、会社名を京浜電気鉄道に改めた同社は、1902年に蒲田駅-穴守駅間を開業します。しかし、この穴守駅は現在の穴守稲荷駅とは異なり、海老取川に近い天空橋付近にあったそうです。その後、穴守駅は移転しますが、1914年にこの穴守駅の位置に『羽田駅』が開業します。しかし、翌年には稲荷橋駅に改称したほか、1940年と1952年には駅の場所が移転しています。さらに1956年には路線の延長に伴って『羽田空港駅』が開業、これにあわせて稲荷橋駅は『穴守稲荷駅』に改称されました。

答えを見る 閉じる
更新日:2023/02/10
Q
2022年9月8日に96歳で亡くなった英国の女王エリザベス2世。来日されたのが1度きりで、その際は羽田空港に降り立ちました。それはいつでしょうか?
①1975年 ②1980年 ③1985年 ④1990年
A
①1975年

1975年(昭和50年)5月7日、英国のエリザベス女王とエジンバラ公ご夫妻が羽田空港に英国航空特別機で来日されました。1971年に昭和天皇、皇后両陛下の訪英の答礼とするもので、イギリスの元首として初めての来日でした。宮中晩餐会、帝国ホテルから国立劇場までの約2km間をオープンカーでのパレード、伊勢神宮や京都観光、新幹線乗車など日本に6日間滞在され、5月12日に羽田空港より離日されました。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/12/23
Q
1972年10月28日に中国から日本に贈られた2頭のパンダが羽田空港に到着しました。そのパンダの名前は何でしょう?
①フェイフェイとフォアンフォアン ②カンカンとランラン ③チュチュとトントン ④ユウユウとシュアンシュアン
A
②カンカンとランラン

1972年に日中国交正常化が実現すると、中国から日本に2頭のジャイアントパンダを贈られました。1972年10月28日、日本航空の特別機で羽田空港に到着したのは、「カンカン(康康)」と「ランラン(蘭蘭)」。当時の内閣官房長官の二階堂進氏が出迎えるほどでした。その後、上野動物園に輸送され、第一次パンダ・ブームが巻き起こりました。上野動物園には平均で毎日1万5千人の人々が参観に訪れた。上野動物園に来園したことを記念し、10月28日を「パンダの日」としています。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/09/09
Q
1954(昭和29)年2月2日に日本航空(JAL)は戦後初めて週2便の国際定期便を開設しました。その航路は羽田を出発して太平洋のウェーキ島、ハワイのホノルルを経由し、サンフランシスコへ到達するルートでした。では当時、羽田からサンフランシスコに到達するまでの時間はどのぐらいだったでしょうか?
①24時間 ②28時間 ③31時間 ④40時間
A
③31時間

2024年には路線開設70周年を迎える日本航空の東京=サンフランシスコ線。就航時はアメリカ・ダグラス社が開発した大型レシプロ旅客機DC-6B型が使用されました。DC-6は約700機が製造された傑作プロペラ機ですが、さすがに日本から北米までノンストップで飛ぶことは出来ず、太平洋上にあるサンゴ礁でできた小さな島「ウェーキ島」とハワイの「ホノルル」を経由して、給油や整備を行っていました。当時の時刻表を見ると、運航は週2便で、羽田を夜10時前に出発して、サンフランシスコには現地時間の翌日11時過ぎに到着するスケジュールでした。「あれ、意外に早いんじゃない?」と思うかもしれませんが、これは途中で日付変更線を超えるためで、羽田からサンフランシスコまでの飛行時間は約31時間を要しました。ちなみに、現在の羽田=サンフラシスコ線はボーイング787型機による運航(2022年8月現在)で、飛行時間は往路JL2便が10時間弱、復路JL1便が11時間弱となっています。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/08/12
Q
1952年7月1日にGHQより羽田飛行場が返還され、空港名は「東京国際空港(羽田空港)」となりました。初代空港長には中尾純利氏が就任しましたが、中尾氏の前職は何だったでしょうか?
① 村長 ②エンジニア ③パイロット ④通訳
A
③パイロット

羽田空港の初代空港長である中尾純利氏は1903年に鹿児島県で生まれました。埼玉県所沢の陸軍飛行学校を経て、三菱重工のテストパイロットとなり、1939年8月、毎日新聞社主宰の国産の飛行機「ニッポン号」の機長として操縦桿を握り、56日、194時間をかけて5大陸20カ国を歴訪する世界一周の親善飛行を成し遂げました。1952年に羽田空港初代空港長に就任し、1959年10月31日まで在任。1960年4月20日に肺結核のため死去。享年57歳でした。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/08/05
Q
1964年に行われた東京五輪の際、聖火はギリシャから日本に返還前の沖縄へと運ばれました。その後、那覇から飛行機で「鹿児島」、「宮崎」、「北海道」の3地点へと運ばれ、そこから4つの地上ルートで聖火リレーが実施されました。では、聖火を那覇から日本国内へと運んだ飛行機は何でしょうか?
①YS-11 ②DC-3 ③コンベア440 ④デ・ハビランドDH.114ヘロン
A
①YS-11

YS-11は1962年に初飛行を行った、第二次大戦後初となる国産旅客機。官民共同の特殊法人である日本航空機製造が設立され、新三菱重工、川崎重工、富士重工など国内7社が製造を行いました。1964年の東京オリンピックでは沖縄に到着した聖火が、全日空のYS-11「聖火号」で聖火リレーの出発地である鹿児島、宮崎、北海道へと運ばれました。この聖火輸送に使用されたYS-11は飛行試作2号機で、この大役のために全日空に短期リースされました。全日空ではこの聖火輸送にちなんで「オリンピア」の愛称を使用しました。さて、ではギリシャから日本まではどうやって聖火を運んだのかといえば、こちらは日本航空がDC-6B型機を使用、2週間以上をかけて輸送しました。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/08/05
Q
羽田空港は、1931年開業当時の敷地面積は53haほどでしたが、数回の拡張工事を重ね、2010年には国際線ターミナルビルの供用を開始し、約1,516ヘクタールにまで広がりました。では、次のうち、現在の羽田空港の敷地内にあった施設は何でしょうか?
①お城 ②炭鉱 ③競馬場 ④サーキット
A
③競馬場

羽田空港一帯は江戸時代後期に干潟を干拓した土地から空港へと発展しました。空港の建設は1930年頃から始まり、現在の(旧)整備場の周辺が空港用地とされました。では、それ以前は何があったのかといえば、1900年頃から多くのレジャー施設が整備されており、羽田穴守海水浴場のほか、『羽田競馬場』や『羽田運動場』がありました。羽田運動場にはテニスコートや野球場、本格的な陸上競技場、遊園地などもあったそうです。しかし、空港の拡張工事における用地となったため、1938年に取り壊されました。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/07/08
Q
来日に際して世界的な有名人が降り立つ羽田空港。日本の空の玄関口として、世界各国の著名人が利用し、その都度ファンやメディアも押し寄せます。では、1954(昭和29)年2月1日に羽田空港に降り立ったアメリカの人気女優は以下のうち、誰でしょうか?
①オードリー・ヘップバーン ②マリリン・モンロー ③エリザベス・テーラー ④グレース・ケリー
A
②マリリン・モンロー

1954(昭和29)年2月1日の午後5時35分に夫のメジャーリーガーであるジョー・ディマディオ選手と新婚旅行のために羽田に降り立ったのが、アメリカの人気女優マリリン・モンローです。一度はタラップを降りたものの、あまりの群衆に再び機内に戻り、荷物の積み込み口から脱出し、宿泊先の帝国ホテルにオープンカーで向かったという記録が残っています。ジョー・ディマディオ、マリリン・モンロー夫妻は福岡、岩国、広島、神戸などを訪れ、その間マリリン・モンローは朝鮮の国連軍慰問も行いました。そして2月25日14時7分に羽田空港からサンフランシスコへ帰国しました。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/06/10
Q
1986年に開催された東京サミットに参加するため、世界各国の元首が羽田空港に降り立ちましたが、超音速機・コンコルドで来日した元首は誰でしょうか?
①  フランスのミッテラン大統領  ② イギリスのサッチャー首相  ③ イタリアのベルルスコーニ首相 ④ ドイツのコール首相
A
A ①フランスのミッテラン大統領

マッハ2(時速約2160km)を超える飛行速度を実現した超音速旅客機「コンコルド」。開発はフランスのシュド・アビアシオンとイギリスのBACが中心となって開発され、1975年に就航ました。収益性や安全性などの問題から、2003年に残念ならが退役しましたが、

日本にも何度か姿を現しています。もっとも古い記録は1972年にプロトタイプが飛来、その次が1986年にフランソワ・ミッテラン大統領が来日した際のエールフランス特別機でした。この他、長崎空港や関西国際空港など、日本には合計5回飛来しました。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/05/27
Q
1966年6月29日午前3時40分に羽田空港に降り立った世界最高の人気バンド・ビートルズ。彼らはどの機体で羽田空港へ来たのでしょうか?
①日本航空マーチン202「もく星」 ②日本航空DC-8「MATSUSHIMA(松島)」 ③日本航空コンベア880は「SAKURA(桜)」 ④ボーイング727「TONE(利根)」
A
②日本航空DC-8「MATSUSHIMA(松島)」

1960年(昭和35年)から導入した日本航空としては初となるジェット旅客機であり、その美しい佇まいから「空の貴婦人」とも言われたダグラスDC-8シリーズ。初期から中期に導入された機体には日本の景勝地にちなんだ愛称が与えられました。また、長距離にも対応できる性能から、国賓や著名人の移動でも活躍しました。ビートルズは日本公演にあたり、前の公演地である西ドイツ・ハンブルクからイギリス、アメリカ(アンカレッジ)を経由してやってきました。搭乗してきたのはDC-8-32型として導入され、-53型に改修されたMATSUSHIMA号(登録記号JA8008)でした。6月30日から7月2日にかけて5回の公演を行ったビートルズは、7月3日に次の目的地に向けて出発しました。出発時に搭乗したのは、日本航空のDC-8-53型KAMAKURA号(登録記号JA8006)でした。

答えを見る 閉じる
更新日:2022/05/20
Q
羽田空港の前身である「東京飛行場」は1931(昭和6)年8月25日、日本初の民間専用飛行場として開場しました。では、その時の滑走路の長さと幅は?
①延長300m幅15m ②延長500m幅20m  ③延長800m幅30m ④延長1000m幅50m
A
①延長300m幅15m

東京飛行場は逓信省による民間専用の飛行場として開設されました。総面積は52.8haで、滑走路は300m×15mの1本のみ。そのほか、施設としては円形の待合室と格納庫2棟だけで、管制塔はなく、手旗信号で運航業務を行っていました。1931年8月25日の開港第1便は、日本航空輸送株式会社が運航する大連行きの6人乗りフォッカー型機でしたが、乗客はなく、松虫と鈴虫6000匹が運ばれたと記録に残されています。

(写真)

国土地理院

地図・空中写真閲覧サービスより

答えを見る 閉じる
更新日:2022/05/13