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歴史

Q
羽田空港の大部分は埋立地です。江戸時代より東京湾の埋め立て工事が始まりましたが、最初の埋め立ては江戸城の築城工事に伴う堀の掘削土を使用して、丸の内や八重洲が埋め立てられました。当時は現在の東京駅あたりまで海でした。それがどんどん埋め立て工事が進み、延長線上に羽田沖も埋め立てられ、羽田空港も作られました。もともとは海でしたが、羽田の地盤は非常に軟弱で、埋立工事は困難を極めました。その軟弱な地盤を、食材の名前を用いて俗に何と呼ばれるでしょうか?
①羽田スポンジ層 ②羽田マヨネーズ層 ③羽田こんにゃく層 ④羽田ゼリー層
A
②羽田マヨネーズ層

江戸時代より東京湾の埋め立て工事が始まりましたが、最初の埋め立ては江戸城の築城工事に伴う堀の掘削土を使用して、丸の内や八重洲が埋め立てられました。当時は現在の東京駅あたりまで海だったのです。そして埋め立て工事はどんどん進み、その延長線上として羽田沖も埋め立てられ、のちに羽田空港が作られました。1970年代になると、空港需要の拡大に対応するため、滑走路の沖合拡張が必要となったものの、そこはヘドロが堆積したドロドロの底なし沼で、マヨネーズ並みの軟度でした。この地層を地盤改良するため、最先端の土木技術が投入されました。そのため、計画から完成まで約20年の歳月を要し、ようやく羽田空港新滑走路の供用に至りました。

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更新日:2024/01/12
Q
羽田空港旅客ターミナルを運営する『日本空港ビルデング』の設立は1953年、つまり今年は創立70周年!当時はまさに高度経済成長期を迎えようという時期で、同じ年には今日へと続く有名な企業が数多く設立しています。では、次のなかで、1953年設立でない企業はどれでしょう?
①SUBARU(スバル/旧富士重工業) ②東洋水産 ③タカラトミー ④マツモトキヨシ
A
④マツモトキヨシ

皆さまにご利用いただいている羽田空港、その旅客ターミナルを運営する日本空港ビルデングは2023年に設立70周年を迎えることができました。設立した1953年はまさに高度経済成長期を迎えようという時期で、今日へと続く企業も数多く設立されました。①のSUBARUは1917年の創業で、戦前は航空機の製造を手掛けていました。戦後は幾つかの企業に分割されましたが、その中心的な企業により1953年に富士重工業(現SUBARU)が設立されました。②「マルちゃん」のブランドでお馴染みの食品会社、東洋水産は1953年に横須賀水産として創業、1956年に現在の東洋水産に名称を改めています。③日本を代表する玩具、トミカやプラレール、リカちゃんで知られるタカラトミー。同社はトミーとタカラ、2社が合併した企業ですが、1953年に株式会社として設立とされています。そして④「マツキヨ」の愛称でお馴染みのドラッグストアチェーン、マツモトキヨシは1932年に創業、1954年に個人経営から法人組織である有限会社マツモトキヨシへと改組しています。

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更新日:2023/12/01
Q
機内でのサービス要員として、また時には保安要員として活躍する客室乗務員。JALでは創業間もない1951年に第1期生が入社しました。それから70年以上を経た現在、乗務員の制服も時代に合せて数多くの変更を受けています。では、2020年に採用された現在の制服は何代目でしょうか。
①5代目 ②7代目 ③9代目 ④11代目
A
④11代目

JALが設立したのは1951年10月。設立時から客室乗務員が在籍しており、最初の制服はシルバーグレーの襟付き2ピーススタイルで、デザイナーは門田 稔さんでした。その後、数年ごとにデザインが改められており、2020年4月に採用された現在の制服は11代目となります。コンセプトはハイブリッドビューティーで、デザイナーは江角泰俊氏です。JALとしては初のパンツスタイルが導入されたのも話題となりました

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更新日:2023/11/24
Q
羽田空港第2ターミナルビルが開業したのは2004年12月1日。では、次の建物のうち、同じ2004年に完成したのはどれでしょう?
①中部国際空港セントレア ②六本木ヒルズ ③北九州空港 ④三鷹の森ジブリ美術館
A
①中部国際空港セントレア

拡大する航空需要に対応すべく、羽田空港第2ターミナルが開業したのは2004年12月1日のこと。この年は航空に関するニュースも多く、4月には日本航空(JAL)と日本エアシステム(JAS)が経営統合、9月には関西国際空港が開港10周年を迎えました。そして、現在では中京圏を代表する国際空港として知られる、中部国際空港セントレアは2000年に本格的な工事がスタート。2004年10月には空港ターミナルビルが竣工しました。ちなみに、空港が開港したのは翌2005年の2月17日で、着陸一番機はJAL、出発一番機はANAでした。

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更新日:2023/10/11
Q
現在の羽田空港第1ターミナルが開業したのは1993年9月27日。では、つぎの建物のうち開業が1993年でないのはどれでしょう?
①ららぽーとスキードームSSAWS ②横浜ランドマークタワー ③江戸東京博物館 ④恵比寿ガーデンプレイス
A
④恵比寿ガーデンプレイス

1993年といえば平成5年。同年の6月には天皇皇后両陛下がご結婚され、日本中が祝福ムードに包まれた年でした。羽田空港新ターミナル(現在の第1ターミナル)が開業したのは同じ年の9月27日。これに合せてモノレールも延長しました。同年は羽田空港同様、横浜ランドマークタワーなど、さまざまな大規模商業施設などが開業しましたが、恵比寿ガーデンプレイスは1年遅い1994年10月に開業しました。また、当時世界最大、史上最大の屋内スキー場、ららぽーとスキードームSSAWSは羽田空港第1ターミナルと同じ年に開業しましたが、2002年に営業を終了しています。

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更新日:2023/09/20
Q
日本の国産機「YS-11」は国内の民間定期路線のほか、海上保安庁や自衛隊でも活躍しました。2011年1月13日、約42年にわたり日本の海を守ってきた海上保安庁の国産航空機「YS-11」の最後の1機の解役式が第3管区海上保安本部羽田航空基地で行われました。その機体の名前は何でしょうか。
①ブルーイレブン ②ブルーワイエス ③ブルーレスキュー ④ブルーピース
A
①ブルーイレブン

海上保安庁に所属する国産プロペラ機YS-11の最後の1機は「ブルーイレブン」です。ブルーイレブンは1969年に就役、主に海難事故の捜索、救助や哨戒活動などに当たってきました。総飛行時間は約2万3000時間で無事故でした。

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更新日:2023/08/31
Q
羽田空港の旧ターミナルビルのメインロビーの壁には大きな世界地図が描かれ、東京を中心とした航路図が掲示されていました。その提供をしたのは次のうちどこでしょうか?
①ロッテガム ②森永チョコレート ③雪印メグミルク ④明治ヨーグルト
A
②森永チョコレート 

メインロビーの壁にあったのは森永チョコレートの世界地図。この時計は珍しかった海外への旅行を象徴するものでした。また、メインロビーにあった精工舎(現セイコー)の世界時計も国際空港ならでは。メインロビーには売店もあり、お土産用の宝飾品なども扱っていました。

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更新日:2023/08/03
Q
1976年6月26日に行われた伝説の異種格闘技戦、アントニオ猪木VSモハメド・アリ戦。それに先だって、モハメド・アリは6月16日に羽田空港に降り立ちました。その際に往年の名レスラーを伴って来日し、記者会見も同席しましたが、そのレスラーとは誰でしょうか。
①ダスティ・ローデス ②フリッツ・フォン・エリック ③ルー・テーズ ④フレッド・ブラッシー
A
④フレッド・ブラッシー

1972年4月1日に、日本武道館でマック・フォスターと対戦するため初来日したモハメド・アリ。2度目の来日は1976年6月26日に開催された「格闘技世界一決定戦」で。羽田空港には2000人のファンが押し寄せ、大混乱となったそうです。その際一緒に来日したのが、悪役プロレスラーとして日本でも人気のあったフレッド・ブラッシーでした。彼はスペシャル・アドバイザーとしてアリ陣営に参加。コーチ役としてプロレス技を指導したといわれています。

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更新日:2023/07/07
Q
1974年4月に日本初公開となる世界屈指の美術品が厳重な警備の中、エールフランス特別機で羽田空港に輸送されてきました。その後、東京・上野で一般公開されましたが、連日大変な賑わいで長い行列を作りました。では、この美術品とは何でしょうか。
①モナリザ ②ミロのヴィーナス ③ゴッホのひまわり ④ツタンカーメンの黄金のマスク
A
①モナリザ

1974(昭和49)年4月20日、東京国立博物館でフランス・ルーブル美術館所蔵の名画「モナリザ」が一般公開されました。当時の総理大臣であった田中角栄さんがフランスの大統領との会談の際に、名画「モナリザ」をぜひ東京で見せてほしいと懇願したことで実現したとのこと。「モナリザ」はエールフランスのボーイング707によって北極(アンカレッジ)経由で来日し、帰りは日本航空のDC-8貨物専用機JA8032によってモスクワ経由で帰国しました。

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更新日:2023/05/31
Q
羽田空港は1952年7月に連合国軍に接収されていた東京飛行場が日本政府に返還され、名称を「東京国際空港」と改め、国営民間飛行場として再スタートしました。では、その返還を決めた1952年4月に発行された条約とはなんでしょうか。
①パリ条約 ②サンフランシスコ講和条約 ③シカゴ条約 ④ロンドン条約
A
②サンフランシスコ講和条約

第二次世界大戦終結後、連合国による占領下に置かれた日本では、1945年9月12日に一般命令第一号によって羽田飛行場は連合国への引き渡しが命じられ、Haneda Army Airbase(ハネダ・アーミー・エアベース)と呼ばれることになりました。1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、1952年7月に日本政府に返還されました。このサンフランシスコ講和条約は第二次世界大戦後の平和条約で、日本と連合国各国で結ばれました。この条約の発効により、連合国による占領は終わり、日本は主権を回復しました。

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更新日:2023/04/12
Q
羽田空港の始まりは、1931年8月25日、東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田に、逓信省航空局が東京飛行場として開港したのが始まりです。当時はコンクリート敷の滑走路以外は何もなく、管制塔もありませんでした。では、その当時の滑走路の長さは何メートルだったでしょうか?
①150m ②200m ③300m ④500m
A
③300m

東京飛行場として開設した当時は、面積53haに長さ300m、幅15mの滑走路1本を設け、脇にカタカナの右読みで「トウキヤウ」と書かれたコンクリート製の標識文字が設置されていただけでした。その後、1938年から1939年(昭和13年から14年)にかけて最初の拡張工事が行われ、延長800m、幅80mの滑走路が2本整備されました。1959年(昭和34年)にA滑走路を2,550mに延長、1964年に(昭和39年)にC滑走路が完成、1970年(昭和45年)にB滑走路の延長工事、2000年(平成12年)に新B滑走路完成、2010年(平成22年)新たにD滑走路が完成などを経て、合計4本の滑走路となりました。

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更新日:2023/04/05
Q
羽田空港の西の端、モノレールの整備場駅付近に新聞社の格納庫が4棟並んでいます。産経、読売、朝日、毎日の新聞社の格納庫です。新聞各社は、記者やカメラマンを飛行機やヘリコプターにのせて災害・事故の現場に派遣するなど、空からの取材を担っています。中でも朝日新聞社航空部は1926(大正15)年に発足。1923年に大阪―東京間で定期航空輸送を開始、1937年に「神風」号が東京―ロンドン間を最速記録で飛行するなど、国内の航空業界の草分けでもあります。では、この朝日新聞社航空部OBが中心となって設立した会社はつぎのうちどれでしょうか。
①日本航空輸送研究所 ②日本航空 ③大日本航空 ④日本ヘリコプター輸送
A
④日本ヘリコプター輸送

朝日新聞社は早くから航空業界に進出しており、その記者であった美土路昌一は第一次世界大戦(青島戦)に従軍記者として参加したほか、東京-ロンドン間の記録飛行を経験しました。第二次世界大戦により壊滅した日本の定期航空事業を再興することを目的に、1952年に純民間による航空会社「日本ヘリコプター輸送株式会社」を設立しました。この日本ヘリコプター輸送株式会社は、現在のANAの前身であります。

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更新日:2023/04/05
Q
惜しまれつつも2003年に運航が終了した超音速旅客機コンコルド。日本への定期路線はありませんでしたが、日本への飛来実績はあります。では、羽田空港には何回飛来したでしょうか。
①1回 ②2回 ③3回 ④4回
A
③3回

夢の超音速旅客機として1960年代に開発がスタートした『コンコルド』。1969年の初飛行後、1970年末にはマッハ2での飛行に成功しました。石油ショックによる発注キャンセルなどがあったものの、1976年にはエールフランスとブリティッシュ・エアウェイズにより、定期便に就航しました。21世紀に入るとアメリカ同時多発テロやコンコルドによる事故もあり、2003年には運航が終了しました。日本には定期便の就航はありませんでしたが、開発時のデモフライトを含め数回の飛来実績があります。最初は1972年6月、試作機によるデモフライトとして羽田へ飛来しました。続いては1986年5月にフランス大統領の東京サミット特別機として再び羽田へ。そして1989年2月には大喪の礼へのフランス大統領特別機として羽田へと飛来しました。その後、1990年と1994年にはチャーター便として長崎空港や関西国際空港へ運航されました。つまり、5回の飛来実機のうち3回が羽田空港なのです。

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更新日:2023/03/28
Q
進化を続ける羽田空港、現在の第1ターミナルビルは1993年に開業しました。それ以前に使用されていた旧ターミナルの屋上の展望スペースにはある物が展示されていました。それはナニ?
①飛行機 ②モノレール ③外国製自動車 ④小型宇宙船
A
①飛行機

第二次対戦後、羽田空港は米軍に接収されましたが、1952年に日本へと返還されました。1955年に旧旅客ターミナルがオープンしますが、その後も増改築を重ねることで、施設としての機能を充実させますが、同時にユニークな施設や展示も誕生しました。1960年代中盤から1975年にかけては、ターミナル屋上に国産旅客機『YS-11』の試作機が展示されていました。YS-11は1962年に初飛行に成功、1965年4月に定期路線へ就航しています。試作機とはいえ最新旅客機を展示するなんて、羽田空港らしいスケールを感じますし、誰もがヒコーキに憧れを感じた時代らしい展示と言えるでしょう。

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更新日:2023/03/17
Q
羽田空港がある羽田地区の歴史は古く、明治時代から穴守稲荷の一般参拝客で賑わい、さらに1909年3月には当時京浜電気鉄道(現・京浜急行鉄道)が羽田運動場に建設し、学生やアスリートの聖地となりました。では、この羽田運動場に建設されたスポーツ施設のうち、該当しないのはどれでしょうか
①野球場 ②テニスコート ③陸上競技用トラック ④サッカーグラウンド
A
④サッカーグラウンド

羽田運動場は1909年3月、当時京浜電気鉄道が所有していた1万坪に野球場(羽田球場)とテニスコートが建設されました。その建設のきっかけとなったのは、天狗倶楽部という野球チームを結成していた小説家の押川春浪が中心となり、羽田球場の建設を要望したことによります。また野球場のまわりには、競馬場・水泳場・海水浴場なども整備され、穴守駅周辺は一大レジャーランドと化しました。しかし、1912年のスウェーデン・ストックホルムオリンピックに日本が初参加することで、野球場は1周約400メートルの運動場に転換されました。

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更新日:2023/03/17
Q
羽田空港が開港したのは第二次世界大戦の終戦から7年目となる1952年。それでは同じ年に完成した建物は次のうちどれでしょうか。
①新丸ノ内ビルヂング ②東京タワー ③通天閣 ④大手町ビルヂング
A
①新丸ノ内ビルヂング

1950年代初頭はオフィスビルの需要が急拡大した時期。東京駅の丸の内駅舎前には1923年に完成した丸ノ内ビルヂングがありましたが、1952年に行幸通りを挟んだ向かい側に『新丸ノ内ビルヂング』が竣工しました。建物は地上8階、地下2階建てで、一般テナントなども入居していました。しかし、同ビルは再開発にともなって2004年に解体され、跡地には地上38階、地下4階建ての新丸の内ビルディングが2007年に竣工しました。ちなみに、東京タワーは1958年に竣工、現在も東京のシンボルとして親しまれています。通天閣は1912年に完成しましたが、1943年の火災を受けて解体。1956年に2代目となる現在の通天閣が完成しています。地下鉄大手町駅に直結する大手町ビルヂングは1958年に竣工したオフィスビルで、2018年には大規模リノベーションを行い、2020年に工事が完了しました。

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更新日:2023/02/22
Q
羽田空港へのアクセス路線としてお馴染みの京浜急行電鉄。京急蒲田駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅を結ぶ空港線にある『穴守稲荷駅』は、かつて羽田駅という名称でした。では、この羽田駅が開業したのはいつでしょう。
①1914年 ②1934年 ③1954年 ④1974年
A
①1914年

羽田へのアクセスではお馴染みの『京浜急行電鉄』。その源流である大師電気鉄道が設立したのは、羽田空港の開港よりも早い1898年(明治31年)のこと。その後、会社名を京浜電気鉄道に改めた同社は、1902年に蒲田駅-穴守駅間を開業します。しかし、この穴守駅は現在の穴守稲荷駅とは異なり、海老取川に近い天空橋付近にあったそうです。その後、穴守駅は移転しますが、1914年にこの穴守駅の位置に『羽田駅』が開業します。しかし、翌年には稲荷橋駅に改称したほか、1940年と1952年には駅の場所が移転しています。さらに1956年には路線の延長に伴って『羽田空港駅』が開業、これにあわせて稲荷橋駅は『穴守稲荷駅』に改称されました。

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更新日:2023/02/10
Q
2022年9月8日に96歳で亡くなった英国の女王エリザベス2世。来日されたのが1度きりで、その際は羽田空港に降り立ちました。それはいつでしょうか?
①1975年 ②1980年 ③1985年 ④1990年
A
①1975年

1975年(昭和50年)5月7日、英国のエリザベス女王とエジンバラ公ご夫妻が羽田空港に英国航空特別機で来日されました。1971年に昭和天皇、皇后両陛下の訪英の答礼とするもので、イギリスの元首として初めての来日でした。宮中晩餐会、帝国ホテルから国立劇場までの約2km間をオープンカーでのパレード、伊勢神宮や京都観光、新幹線乗車など日本に6日間滞在され、5月12日に羽田空港より離日されました。

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更新日:2022/12/23
Q
1972年10月28日に中国から日本に贈られた2頭のパンダが羽田空港に到着しました。そのパンダの名前は何でしょう?
①フェイフェイとフォアンフォアン ②カンカンとランラン ③チュチュとトントン ④ユウユウとシュアンシュアン
A
②カンカンとランラン

1972年に日中国交正常化が実現すると、中国から日本に2頭のジャイアントパンダを贈られました。1972年10月28日、日本航空の特別機で羽田空港に到着したのは、「カンカン(康康)」と「ランラン(蘭蘭)」。当時の内閣官房長官の二階堂進氏が出迎えるほどでした。その後、上野動物園に輸送され、第一次パンダ・ブームが巻き起こりました。上野動物園には平均で毎日1万5千人の人々が参観に訪れた。上野動物園に来園したことを記念し、10月28日を「パンダの日」としています。

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更新日:2022/09/09
Q
1954(昭和29)年2月2日に日本航空(JAL)は戦後初めて週2便の国際定期便を開設しました。その航路は羽田を出発して太平洋のウェーキ島、ハワイのホノルルを経由し、サンフランシスコへ到達するルートでした。では当時、羽田からサンフランシスコに到達するまでの時間はどのぐらいだったでしょうか?
①24時間 ②28時間 ③31時間 ④40時間
A
③31時間

2024年には路線開設70周年を迎える日本航空の東京=サンフランシスコ線。就航時はアメリカ・ダグラス社が開発した大型レシプロ旅客機DC-6B型が使用されました。DC-6は約700機が製造された傑作プロペラ機ですが、さすがに日本から北米までノンストップで飛ぶことは出来ず、太平洋上にあるサンゴ礁でできた小さな島「ウェーキ島」とハワイの「ホノルル」を経由して、給油や整備を行っていました。当時の時刻表を見ると、運航は週2便で、羽田を夜10時前に出発して、サンフランシスコには現地時間の翌日11時過ぎに到着するスケジュールでした。「あれ、意外に早いんじゃない?」と思うかもしれませんが、これは途中で日付変更線を超えるためで、羽田からサンフランシスコまでの飛行時間は約31時間を要しました。ちなみに、現在の羽田=サンフラシスコ線はボーイング787型機による運航(2022年8月現在)で、飛行時間は往路JL2便が10時間弱、復路JL1便が11時間弱となっています。

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更新日:2022/08/12
Q
1952年7月1日にGHQより羽田飛行場が返還され、空港名は「東京国際空港(羽田空港)」となりました。初代空港長には中尾純利氏が就任しましたが、中尾氏の前職は何だったでしょうか?
① 村長 ②エンジニア ③パイロット ④通訳
A
③パイロット

羽田空港の初代空港長である中尾純利氏は1903年に鹿児島県で生まれました。埼玉県所沢の陸軍飛行学校を経て、三菱重工のテストパイロットとなり、1939年8月、毎日新聞社主宰の国産の飛行機「ニッポン号」の機長として操縦桿を握り、56日、194時間をかけて5大陸20カ国を歴訪する世界一周の親善飛行を成し遂げました。1952年に羽田空港初代空港長に就任し、1959年10月31日まで在任。1960年4月20日に肺結核のため死去。享年57歳でした。

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更新日:2022/08/05
Q
1964年に行われた東京五輪の際、聖火はギリシャから日本に返還前の沖縄へと運ばれました。その後、那覇から飛行機で「鹿児島」、「宮崎」、「北海道」の3地点へと運ばれ、そこから4つの地上ルートで聖火リレーが実施されました。では、聖火を那覇から日本国内へと運んだ飛行機は何でしょうか?
①YS-11 ②DC-3 ③コンベア440 ④デ・ハビランドDH.114ヘロン
A
①YS-11

YS-11は1962年に初飛行を行った、第二次大戦後初となる国産旅客機。官民共同の特殊法人である日本航空機製造が設立され、新三菱重工、川崎重工、富士重工など国内7社が製造を行いました。1964年の東京オリンピックでは沖縄に到着した聖火が、全日空のYS-11「聖火号」で聖火リレーの出発地である鹿児島、宮崎、北海道へと運ばれました。この聖火輸送に使用されたYS-11は飛行試作2号機で、この大役のために全日空に短期リースされました。全日空ではこの聖火輸送にちなんで「オリンピア」の愛称を使用しました。さて、ではギリシャから日本まではどうやって聖火を運んだのかといえば、こちらは日本航空がDC-6B型機を使用、2週間以上をかけて輸送しました。

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更新日:2022/08/05
Q
羽田空港は、1931年開業当時の敷地面積は53haほどでしたが、数回の拡張工事を重ね、2010年には国際線ターミナルビルの供用を開始し、約1,516ヘクタールにまで広がりました。では、次のうち、現在の羽田空港の敷地内にあった施設は何でしょうか?
①お城 ②炭鉱 ③競馬場 ④サーキット
A
③競馬場

羽田空港一帯は江戸時代後期に干潟を干拓した土地から空港へと発展しました。空港の建設は1930年頃から始まり、現在の(旧)整備場の周辺が空港用地とされました。では、それ以前は何があったのかといえば、1900年頃から多くのレジャー施設が整備されており、羽田穴守海水浴場のほか、『羽田競馬場』や『羽田運動場』がありました。羽田運動場にはテニスコートや野球場、本格的な陸上競技場、遊園地などもあったそうです。しかし、空港の拡張工事における用地となったため、1938年に取り壊されました。

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更新日:2022/07/08
Q
来日に際して世界的な有名人が降り立つ羽田空港。日本の空の玄関口として、世界各国の著名人が利用し、その都度ファンやメディアも押し寄せます。では、1954(昭和29)年2月1日に羽田空港に降り立ったアメリカの人気女優は以下のうち、誰でしょうか?
①オードリー・ヘップバーン ②マリリン・モンロー ③エリザベス・テーラー ④グレース・ケリー
A
②マリリン・モンロー

1954(昭和29)年2月1日の午後5時35分に夫のメジャーリーガーであるジョー・ディマディオ選手と新婚旅行のために羽田に降り立ったのが、アメリカの人気女優マリリン・モンローです。一度はタラップを降りたものの、あまりの群衆に再び機内に戻り、荷物の積み込み口から脱出し、宿泊先の帝国ホテルにオープンカーで向かったという記録が残っています。ジョー・ディマディオ、マリリン・モンロー夫妻は福岡、岩国、広島、神戸などを訪れ、その間マリリン・モンローは朝鮮の国連軍慰問も行いました。そして2月25日14時7分に羽田空港からサンフランシスコへ帰国しました。

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更新日:2022/06/10
Q
1986年に開催された東京サミットに参加するため、世界各国の元首が羽田空港に降り立ちましたが、超音速機・コンコルドで来日した元首は誰でしょうか?
①  フランスのミッテラン大統領  ② イギリスのサッチャー首相  ③ イタリアのベルルスコーニ首相 ④ ドイツのコール首相
A
A ①フランスのミッテラン大統領

マッハ2(時速約2160km)を超える飛行速度を実現した超音速旅客機「コンコルド」。開発はフランスのシュド・アビアシオンとイギリスのBACが中心となって開発され、1975年に就航ました。収益性や安全性などの問題から、2003年に残念ならが退役しましたが、

日本にも何度か姿を現しています。もっとも古い記録は1972年にプロトタイプが飛来、その次が1986年にフランソワ・ミッテラン大統領が来日した際のエールフランス特別機でした。この他、長崎空港や関西国際空港など、日本には合計5回飛来しました。

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更新日:2022/05/27
Q
1966年6月29日午前3時40分に羽田空港に降り立った世界最高の人気バンド・ビートルズ。彼らはどの機体で羽田空港へ来たのでしょうか?
①日本航空マーチン202「もく星」 ②日本航空DC-8「MATSUSHIMA(松島)」 ③日本航空コンベア880は「SAKURA(桜)」 ④ボーイング727「TONE(利根)」
A
②日本航空DC-8「MATSUSHIMA(松島)」

1960年(昭和35年)から導入した日本航空としては初となるジェット旅客機であり、その美しい佇まいから「空の貴婦人」とも言われたダグラスDC-8シリーズ。初期から中期に導入された機体には日本の景勝地にちなんだ愛称が与えられました。また、長距離にも対応できる性能から、国賓や著名人の移動でも活躍しました。ビートルズは日本公演にあたり、前の公演地である西ドイツ・ハンブルクからイギリス、アメリカ(アンカレッジ)を経由してやってきました。搭乗してきたのはDC-8-32型として導入され、-53型に改修されたMATSUSHIMA号(登録記号JA8008)でした。6月30日から7月2日にかけて5回の公演を行ったビートルズは、7月3日に次の目的地に向けて出発しました。出発時に搭乗したのは、日本航空のDC-8-53型KAMAKURA号(登録記号JA8006)でした。

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更新日:2022/05/20
Q
羽田空港の前身である「東京飛行場」は1931(昭和6)年8月25日、日本初の民間専用飛行場として開場しました。では、その時の滑走路の長さと幅は?
①延長300m幅15m ②延長500m幅20m  ③延長800m幅30m ④延長1000m幅50m
A
①延長300m幅15m

東京飛行場は逓信省による民間専用の飛行場として開設されました。総面積は52.8haで、滑走路は300m×15mの1本のみ。そのほか、施設としては円形の待合室と格納庫2棟だけで、管制塔はなく、手旗信号で運航業務を行っていました。1931年8月25日の開港第1便は、日本航空輸送株式会社が運航する大連行きの6人乗りフォッカー型機でしたが、乗客はなく、松虫と鈴虫6000匹が運ばれたと記録に残されています。

(写真)

国土地理院

地図・空中写真閲覧サービスより

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更新日:2022/05/13